英彦山大権現の由来
「英彦山は、平安時代より神仏習合で山腹には天台崇霊仙寺、山上に英彦山大権現を祀った勅願所であり、寺社領は方七里、十方植那の勅許を朝廷より賜り、霊仙寺は比叡山延暦寺に準じる格式を持ちました。
中世は山中に四十九窟、三千八百の坊があったと称され、大和国の大峯山、出羽国の羽黒山と共に日本三大修験道場の一つでありました。
近世になって天正九年(1581年)、彦山と秋月藩との盟友関係を憤った豊後の大友軍は雲霞の如く雪崩をうって彦山に侵入、重要建築物を占有し、火を放ちました。天正十四年まで前後七年間の戦闘があり、これは織田信長の比叡山焼討ちに匹敵する法難でありました。
その後、豊臣秀吉の九州征伐軍に反抗した為、彦山の寺社領は悉く没収され、重ね重ねの法難にあいましたが、彦山大権現の信仰は益々隆盛で、山伏姿の修験者は九州各藩に植家を持ち、加持祈祷をしてまわり、権現信仰を広めていました。なかでも元和二年(1616)小倉藩主、細川忠興氏は山伏たちの集会する講堂として、現在の奉幣殿(重要文化財)を再建しました。肥前佐賀藩主の鍋島氏も信仰厚く、寛永十四年(1637)銅の鳥居(重要文化財)を彦山大権現に寄進し、また享保十四年(1729)、霊元法皇から霊験灼かな山として、彦山の上に”英”の字を附し”英彦山とすべしと勅額を賜りました。
明治元年(1868)、神分離令が発布され神仏習合の英彦山から英彦山大権現(阿弥陀如来=天忍穂耳命)は廃止され、その社は英彦山神宮として、神(天忍穂耳尊)を祀ることになり、修験者(山伏)の多くは山を降りました。
その後、百拾余年、英彦山大権現の尊称はまさに歴史の彼方に消え去らんとしていました。この由緒ある法灯を英彦山大権現の御告を戴き、今回(昭和五十四年)権現信仰発祥の地である玉屋渓谷の坊跡、滝の坊にお祀りさせていただくことになりました。